フライト日記 (Tokyo)

2011年4月
(NRT)

(すみません、こちらは約1ヶ月前のフライトのお話です・・・(^^;;)

震災後、多分、自動的に毎回東京便を付けて下さっています・・・会社に感謝。・°°・(>_<)・°°・。

ヨーロッパの他の会社が東京に飛ばさなくなってからも東京に飛ばし続け(オランダ人乗務員を大阪で交代させていた為、成田発は関空経由アムステルダム行きでしたが)、
(会社からの説明によると、他社が東京に飛ばさなくなった理由は、危険だったからではなく、選挙が近かった為、国民の印象を良くする必要があったからだったとか・・・)
4月初めには東京直行便を復活。

震災後、初めて成田空港で飛行機を降りました。
(大阪経由の時は、成田空港に飛行機は降りても、私達は飛行機から降りられなかったので、なんだか感無量でした・・・)

大阪経由だった頃、
オランダ人乗務員は、
成田到着後に東京ベースの日本人乗務員の交代があり、
給油をし、それから更に(アムステルダムからの長時間乗務の疲れた体に鞭打って)大阪まで乗務、
日本人乗務員は、
(交通網の乱れもあったので、余裕を持って早朝から空港へ向かい)成田で乗り込んでから関空まで乗務し、
関空でオランダ人乗務員の交代とケータリングの搭載等を待って、
それから(通常の成田発直行便だったら最初のサービスが終わって休憩時間に入るくらいの時間になってから)
関空を出発してアムステルダムまで乗務、
という激務をこなしていました。
本当に大変だったと思います・・・就労時間制限ギリギリだったはず・・・
本当にお疲れ様でしたm(_ _)m
(元々寝不足に強い私は案外平気でしたが、疲れて辛そうな同僚達を見るのは辛かったです)

久し振りの成田空港は、至る所で電気が消されていて暗い・・・節電・・・関空とはえらい違い・・・
大阪では(テレビを見ない限り)あまりに変わりなく、まるで何事も起こっていなかったような錯覚に陥りましたが、
成田は、暗くなった街の照明が、大震災はやはり現実に起こり今も進行中なのだ・・・と実感させ、なんだか心も暗くなってホテル到着。

今回は、社内のボランティアグループWings Of Supportから、スーツケースを2個レンタルし、
合計スーツケース(自分のスーツケースを入れて)3個分の救援物資を運んできました。
(自分の荷物は最低限に控えて全てキャリーバッグに入れました)
中身は、オランダでの支援活動グループの仲間が用意した品々で、
南相馬の高校へ送る品々です。
まずはそれらをスーツケースからダンボール箱に詰め替えて発送する作業をしました。

その後は仮眠を取って東京の実家へ・・・行きたかったのですが、
ステイ中の行動範囲が
”1時間以内にクルーホテルに戻ることができる範囲”
(クルーホテルには緊急脱出用のクルーバスが24時間待機しており、非常事態発生時には、1時間以内に安全な場所へ全員で脱出することになっているとのこと)
とされていて、残念ながら実家へ帰ることはできませんでした。
空港職員の方は、都内であれば実家へ帰っても構わないとおっしゃって下さっていたのですが、
万が一何かあった場合、同僚達を待たせることになってしまうのはよくない、
今回は乗務員として来ているので、会社の指示に従うべき、
と判断しました。

実家へ寄れなかったのは残念でしたが、オランダ人の同僚達と過ごす成田もなかなか楽しかったです♪

夕方、ホテルのバーでのクルードリンクの後、
夕食は(いつも鉄板焼き屋さんに行きたがるオランダ人達を引き止めて)ホテルの斜め向かいの『やまと』さんで、いつものメニュー(=豚の生姜焼きセットと梅酒)。
夕食後はホテルのバーで皆でカラオケ。

翌日は、朝食後、1泊のスケジュールだった同僚達を見送った後(←私を含めて3名だけが2泊のスケジュールだったのです・・・これも恐らく会社が考慮して長いスケジュールの方を入れて下さっています(>_<))
その居残り組(?)3人で成田山新勝寺へ。
少しだけでしたが桜が咲いていて(大阪で惜しくも見ることができなかったので)嬉しかったです・・・やっぱり桜は日本で見たい(*^-^*)
帰りにショッピングモール・イーオンに寄り(イーオンも節電で暗~くなっていました・・・感心)、100円ショップで子供達へのお土産を買って、ホテルへ。

その日の朝到着した、翌日私達と一緒に乗務するクルーにジョインして、
クルードリンク以降は前日と同じスケジュール(笑)

ホテルの部屋では、乗務の時に救援物資を運ぶ活動(?)に関して会社や大阪のクルーホテルとのメールや電話の遣り取りがあってほとんどのんびりできませんでしたが、
楽しい成田ステイでした(*^-^*)

ご縁というのは面白いなぁ・・・といつも思うのですが、
100名近くいる日本ベースの日本人の同僚の中でも、(あたかも私がその方が乗務する日を狙ってリクエストしているかのように)何度も何度もお会いできる方もいれば、
一度もお目にかからないまま契約を終えて退社されてしまわれる方も・・・
今回驚いたのは、副操縦士のパスカル。
3月に乗務した東京便2本(どちらもステイは大阪)ご一緒して、それだけでもビックリしたのに、今回また一緒だったのです。
これでパスカルが独身で私の好みのタイプとかだったら”運命の人”だったかもしれません(・・・が、私はやっぱり日本人の方がいいです・笑)

よし! 明日(もう今日ですが)からの乗務の前に書き終えた~!!

今回もスーツケース3個分の救援物資を持って行きます(*^-^*)

フライト日記 (Tokyo)」への2件のフィードバック

  1. お久しぶりです(^^)
    misaeさん、相変わらずハードな毎日を過ごされているようですが
    その後の体調はいかがでしょうか?

    被災地に向けての支援物資送りのために協力を惜しまない会社って
    素晴らしいですね、とても有り難いことです。
    それにしてもステイ中の行動範囲が制限されていただけでなく
    緊急脱出用にクルーバスが24時間待機とは驚きました!!
    やはり海外から見ると当時の日本は危険だったのですね(><)

    東電も政府も安全だといい続けていますが
    真実が報道されてきていないことが明るみに出てしまった今
    これからどうなるのだろうか?と不安になってしまいます。
    放射線の影響が悪い方向に出ないことを祈るのみです・・・

    misaeさん、ご両親や子どもさん達のためにも健康でいられるように
    どうか無理をされませんように!!

    「睡眠時間が少なくても大丈夫」と過信しないでくださいね?
    健康を保つためには良質な睡眠とバランスの良い栄養食、
    そしてストレスのない生活ですから(^^)v

  2. アヌークさん、コメントありがとうございます。

    そうですね、当時はまだ大きな余震も続いていましたから、24時間待機の脱出用バスは、地震と原発両方の危険に対しての処置だったのだと思います。

    >「睡眠時間が少なくても大丈夫」と過信しないでくださいね?
    >健康を保つためには良質な睡眠とバランスの良い栄養食、
    >そしてストレスのない生活ですから(^^)v

    ご心配ありがとうございます、全く仰るとおりです。 
    今回の激務で、自分は睡眠不足に強くてよかったと思いましたが、
    いくら睡眠不足に強くても、徹夜や2~3時間睡眠が何日も続いたら流石に持ちません。
    最短リーブでの乗務、乗務の合間もチャリティーイベントのお手伝い、会社とのメールの遣り取り、子供達の学校や習い事もあり・・・というのを続けてきて、
    先日、実家で実は記憶を無くしました。 正確には、体は起きたまま頭は寝ている、という状態=夢遊病者のような感じ(?)になり、
    注意しないといけないと反省しました。

    今も連日、やらなければならない事(→主に、いろいろな方々、いろいろな機関、とのメール連絡)が沢山あって、一つ一つ落ち着いてこなしていかなければと頑張っているところですが、
    徹夜はしないように、睡眠は少なくとも4時間半以上とるように気を付けています(^-^)

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